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EPISODE #197
【水産ウィーク×ストーリー】帰ってきたニシンと新たな希望
春の嵐に翻弄された2度目の水産ウィーク。寿都町の漁船に乗せてもらうはずが、海が荒れて漁は中止になりました。失意の中で訪れた余市町の水産博物館で、かつてニシン漁で栄えた北海道の歴史を学びます。
今回は、水産ウィーク第4話、北の海を取り巻く失意と新たな希望のお話です。
水産博物館は、ニッカウヰスキーの蒸留所がある余市市街地の先の、海を見下ろす小山の上にありました。背が高い大きな建物で、飛び出した木船の舳先が不思議な雰囲気を出しています。入場券を買って、ひんやりと薄暗い館内に入る青木君と私。他に来館者はいないようです。
「はあー、今頃、寿都で漁船に乗ってるはずだったのに...」
まだ諦めきれない2人は、さしたる目的も無く、「水産」という文字が気になって訪れた博物館をただ見ています。この博物館は、アイヌ文化や、明治以降の開拓の歴史、そして北海道日本海側の町の基礎を築いたニシン漁の歴史を伝えていました。
ニシンの加工品を関西まで運んだ北前船の大型模型や、実際に使われていた漁具、ニシン漁の活気が伝わってくるジオラマ。ここはなかなかどうして、面白い場所かもしれません。少しずつですが、どん底まで沈んでしまった気持ちが浮き上がってきました。
かつて北海道の日本海側では、春になると「群来(くき)」が当り前のように見られました。波が穏やかな日に群れをなしたニシンが一斉に産卵することで海が白く濁る現象です。明治時代、産卵のために沿岸に戻ってくるニシンは、この地域のニシン漁を発展させました。
寿都、余市、小樽、石狩、増毛、留萌と、100マイル地元食の挑戦で海の幸を求めて訪れた漁港は、どこもこの時代に栄えました。ですが、その後のニシン漁の歴史は、悲しい衰退の歴史になりました。
1897年(明治30年)に最高の約98万トンを記録した漁獲量は、その後は減り続け、1954年(昭和29年)を境に沿岸ではほとんど獲れなくなってしまいました。乱獲や温暖化による海水温の上昇、さまざまな原因があるそうですが、人の営みが自然のバランスを乱してしまったのは確かです。
それから50年近く、国産のニシンはほとんど流通せず、ニシンの卵の塩漬けである数の子や、干物にした身欠ニシンは、ロシアや北米からの輸入原料で作られるようになりました。ですが、わずかに獲れる北海道のニシンは、地元で大切に食べられてきたのです。
変化が起きたのは1999年です。半世紀も見られなかった「群来」が留萌市で突然起きたことで地元は大騒ぎになりました。その後も断続的に群来が確認され、2008年以降は毎年見られるまでニシンの数は増えています。その背景には、地元の漁師さんたちの地道な稚魚放流があったそうです。
歴史の激動の中で一度は失われてしまったものが、地元の人々の想いと努力のおかげで再び帰ってくる。この20年で、ニシン漁の歴史に新たな希望が書き加えられています。もう一度、地元の漁師さんと消費者が、ニシンと向き合えるチャンスが来たのです。
新たな希望に触れ、すっかり元気を取り戻した私たち2人は、無性に魚が食べたくなってきました。立ち寄ったのは、同じく余市にある新岡鮮魚店です。ここでは余市漁港に揚がった新鮮な地元の鮮魚が買えます。そして会えたのです、地元のニシンに。
ニシンは、華やかな紅神目抜に比べれば安くて地味な魚です。でも、ニシン漁の波乱万丈の歴史を知った今、このありふれた地元の魚が特別な魚に見えてきます。いつもの通り、ニシンの干物を作ろう。きっと今まで以上に美味しく作れるはずです。
我が家に帰る車中、青木君がスマホを確認しながら声を上げます。
「もしかしたら明日は漁船が出るかもしれないって!」
まだ風は強く吹いていますが徐々に天候は回復しつつありました。明日の朝、もし風と波がおさまっていれば、漁船に乗れるチャンスがあるという、寿都町役場の大串さんからのメッセージでした。水産ウィークにもやってきた新たな希望。ああ、お腹減った!