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EPISODE #165
【小豆島】小豆島が発信する伝統の新しい守り方
小豆島のヤマロク醤油で体感した木桶作り。全国から多くの方たちが集い、分け隔てなく一緒に木桶を作り、酒を酌み交わした3日間。現代社会だからこそできる、伝統の新しい守り方のヒントがそこにはありました。
「木桶職人復活プロジェクト」参加レポートの最終回は、“本物の食” を笑顔で守っている人たちのお話。
2011年に小豆島のヤマロク醤油が始めた「木桶職人復活プロジェクト」。始まりはすごくシンプルな想いでした。
「木桶職人がいなくなれば、子や孫の世代に本物の醤油作りができなくなる。ならば、自分たちの手で木桶を作ろう。」
ヤマロク醤油五代目の山本さんと小豆島の2人の大工さんが、当時、国内で最後の1人と言われた醸造用の大桶の職人に弟子入りしました。木桶作りを学んだ3人は、小豆島に戻り、試行錯誤を繰り返しながら、2013年に何とか1本目の木桶を完成させることができたそうです。
プロジェクトを立ち上げてから最初の木桶完成まで2年。最初の1歩を踏み出したことで、シンプルな想いは、ゆっくりではありますが形になっていきました。これだけでも大変なことですが、小豆島に起きた奇跡はもっと素晴らしいものでした。
ヤマロク醤油の山本さんのシンプルな想い、それに共感した全国の醤油醸造家がプロジェクトに参加するようになりました。その多くが木桶を使った伝統的な醤油醸造を続けている職人たちでした。木桶職人が絶えることは、ヤマロク醤油だけの問題ではなく、醤油業界全体の問題になったのです。
そして、若き木桶職人たちも集まりました。醸造用の大桶は長持ちするため買い替え需要も少なく、大桶専門では職人は食べていけません。そこで、プロジェクトに参加した若き木桶職人たちは、普段は各自が “おひつ” などの家庭用の桶を作りながら、 大桶の発注があった時に集まって仕事をする「結い物で繋ぐ会」を立ち上げました。木桶職人が復活しただけでなく、確実に若い世代に引き継がれたのです。
山本さんの純粋な想いに惹かれたのは、“作り手” だけではありませんでした。醤油を食べる消費者もまた集まり始めたのです。私たち消費者は、伝統的な製法が途絶えつつあったことを何も知りませんでした。小豆島で触れた木桶作りと醤油作りに心血を注ぐ職人たちの想いに共感し、消費者もまた、いつの間にかプロジェクトの一員になっていました。
今や、ヤマロク醤油の二度仕込み醤油 “鶴醤(つるびしお)” 、そして丹波黒豆で作った “菊醤(きくびしお)” は、入手しにくい商品になっています。それは、五代目の山本康夫さんが立ち上げ、多くの職人や消費者の共感を呼んだプロジェクトが、テレビ番組で特集され、一気に知名度が高まったからです。
康夫さんは、こんな結果まで予想してプロジェクトを始めたのでしょうか。いいえ、違うはずです。自らが本物だと信じた醤油の伝統を100年後まで残したい。そのために木桶を作る。シンプルで強い想いが多くの人を惹きつけ、1つのストーリーを作り、今では小豆島を訪れたことが無い消費者までファンにしています。
伝統を守ろうとしている職人は、どこか遠くにいる高尚な人。ここに来るまで、そう思い込んでいました。でも違いました。小豆島にあったのは、自分の想いを信じて行動し、誰よりも楽しむ職人さんと、全国から集まったファンが作る輪でした。一緒に木桶を作れば誰もが仲間になれる。そんな開かれた人の輪でした。
現代社会では、SNSを使って、誰もが想いを発信することができます。あるストーリーに共感した人が、自分の想いも乗せてまた発信をし、共感が横に広がっていく世界です。ヤマロク醤油が始めた「木桶職人復活プロジェクト」は、図らずも現代社会ならではの「伝統文化の新しい守り方」を教えてくれています。
何も知らないままに訪れた小豆島。私もすっかりヤマロク醤油とプロジェクトのファンになりました。どんなに技術が発達し便利な世の中になっても、人間が共感することは大きく変わりません。人間は、やはり人間が生み出したストーリーに共感する。そう信じています。
小豆島発のフェリーに乗った私は、1つだけお土産を手にしていました。ヤマロク醤油で買った “鶴醤” 、“菊醤” 、そしてポン酢の詰め合わせです。この3日間、100マイル地元食は中断していましたが、ヤマロクの醤油だけは口にしませんでした。この醤油は1年間のチャレンジが終わってから真正面から向き合って食べたい。私なりの小さな意地でした。
また醤油が無い札幌の生活に逆戻り?そうではありませんでした。試してみたいシンプルなアイディアが1つあったからです。それはまた別の機会に。